断片的な走り書き2
この記事は2018.9.12、16:12に更新しました。
更新内容:記事の末に新たな文章を追加しました。
「何が起きても大丈夫だよ・・・」
そうやって、
いつもあなたに語りかけている、そんな優しい静寂が聴こえてこない?
探してごらん・・・
探しても聴こえないのなら、その聴き方を思い出せばいい・・・
思い出すことができないのなら、何が起きても大丈夫な人のそばにいればいい・・・
意識としてのあなたが進化していけばいくほど、あなたの感受性は研ぎ澄まされていく。
なぜなら、その対象をより直接的に感じ取るようになっていくようになるからである。
ゆえに意識において進化した者にとっては、その痛みや苦しみもまた、より強く体験されていくこととなる。
そのような意味において、彼らは真なる自己に明晰に目覚めるまでは苦しみ続けることとなる。
しかしそのようにして、強い痛みや苦しみが、真なる自己の目覚めに対する切実な原動力ともなるのである。
それゆえ自己意識さえも目覚めていない人というものは、真なる自己の目覚めなどは知識としてさえも必要とせず、意識として進化した者においては真なる自己の目覚めだけが唯一の緊急性を要する必須のものとなってくるのである。
ヨガや瞑想、祈り、呼吸法、エネルギー・ワークやカルマ・ワークなどといった、ありとあらゆるスピリチュアル・ワーク。
それらを中途半端に行う者には、それらが奥深いものに見えてくる。
それらをやり尽くした者においては、それらがママゴトに見えてくる。
どちらが正しいわけでもない。
バカもハサミも使いようなのである。
「瞑想を代表としたスピリチュアル・ワーク、それらは所詮ママゴトにしか過ぎない。」
そのような理解が自然と生じてくるまでは、それらも役に立つかもしれない。
または役に立つどころか、取り返しのつかない所まであなたを損ねることになるかもしれない。
包丁で魚を上手に捌(さば)く人もいれば、指を落とす人もいる。
真なる自己に目覚めたお客様や生徒から頂いたご感想は、ある観点からすれば目覚めに関する貴重な情報でもありデータでもあるため、そこにはまだ見えていない答えのヒントとなるものがたくさん眠っているのである。
それゆえに注意を要して読む必要があるため、私からの返信は遅れるのである(笑)
悟りとは、苦しみからの解放というよりは、深刻さからの解放である。
切実なものというものは、依然として変わらずありながらも、それに対しての深刻さというものはもはやない。
人は悟りによって、不必要な苦しみからは解放されるが、「怪我をすれば痛い」というように、人間として生きていく以上は、生きていく上での最低限の苦しみから逃れることはできない。
しかし、そのような苦しみはもはや、あなたにとって深刻なものとはならないのである。
その苦しみが、ネガティブな思考や想念の連想によって、不必要に増幅されることがないからであるということも、その理由の一つである。
真なる自己に目覚めたばかりのあなたは、生まれたばかりの赤ん坊だ。
たくさんオッパイ(聖なるもの)を飲んで、たっぷりと眠りなさい。
勉強などは、大きくなってからでいい。
やかましいくらいの内なる静寂という贅沢(ぜいたく)。
それが私たちの自然な状態。
● 自己意識さえも眠っている意識状態
● 自己意識が目覚めている意識状態
それらの違いを一言で言うならば、あなたがどこにいるのかに由来する視点の違いだよ。
3者にとって同じ「今・ここ」でありながらも、次元が違うんだよ。
言い換えるなら、完全なる「今・ここ」とは、悟りの意識状態にしか存在しないということである。
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